烏丸 光広 からすまる みつひろ
   

ひとの月みるところ
ながめむと おもふこころを 忌れて
月ゆへつらき 山の葉もなし
人の月観るところ
眺めんと 思う心を 忌(いまわ)れて
月ゆえ辛き 山の葉もなし
6p×36p

天正7年(1579)生〜寛永15年7月13日(1638年8月22日)歿
 安土桃山・江戸時代の公卿・歌人・能書家。准大臣従一位烏丸光宣の子。烏丸家は藤原氏日野家の分家。3歳で叙爵。侍従、右左少弁、蔵人を経て、慶長4年(1599)蔵人頭に補せられる。
 慶長5年(1600)22歳のとき、関ヶ原の戦いが起こり、細川幽斎が丹後田辺城で石田三成方の軍に包囲されるや、後陽成天皇の勅命を受けて中院通勝、三条西実条とともに開城の勧告に赴く。
 のち、細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め、歌集に孫の資慶の編んだ『黄葉和歌集』、著書に『耳底記』・『あづまの道の記』・『日光山紀行』・『春のあけぼのの記』、仮名草子に『目覚草』などがある。
 歌風は当時の堂上和歌の主流である二条派の風であるが、一糸和尚に参禅したので禅学の影響があってか高遠で清高な作品がみられる。
 また、俵屋宗達筆による『細道屏風』に画賛を記しているが、この他にも宗達作品への賛をしばしば書いている。
 本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。
 慶長11年(1606)参議、慶長14年(1609)に左大弁となるが、同年7月に起きた猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、慶長16年(1611)に後水尾天皇に勅免されて還任。慶長17年(1612)権中納言、元和2年(1616)権大納言に上る。1620年には正二位に進む。

推奨サイト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%85%89%E5%BA%83
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